第2回:みる―見える世界のグラデーション―

※ 全4話の 2話目

窓から見える世界の入口

窓から見える、ある日の裏の畑

糸島の可也山という低山のふもとにある、古い小さな民家に4人家族での暮らし。
でも、私たちは絵に描いたようなていねいな暮らしをしている、というわけではない。
日々を暮らしていると、慌ただしくなることもあるし、日常に追われて目の前のものが見えなくなることがしばしばある。

我が家の裏の民家に囲まれた一角に、畑がある。あいにく私たち家族の畑というわけではない。でも、窓から見えるその畑が、なかなか良い。農業を営むというよりは家庭菜園のような雰囲気で、自然や暮らしの季節変化を窓越しに、目で感じることができる。

朝、近所の方が畑の作業をしていると、子どもたちはガラリと窓を開けて話しかける。ときには外に出て近くまで走って行く。作業の邪魔になっていないか心配にもなるが、こういう自然な交流はありがたいし、微笑ましい。
ときには収穫された野菜のお裾分けをいただくこともある。「わぁ、こんなに。ありがとうございます」などとお礼のあいさつをして、ありがたくいただく。

慌ただしさにすさんだ心が、なんだか解れる。

「見る」という行為は、人間にとって言わば世界への入り口である。
世界とより深く関係するための「窓」として、機能しているのかもしれない。

見える深さのグラデーション

よく見ると多様

見ることそのものに、深さの違いがある。
たとえば、自然の色を考えてみる。

自然を目にすると、真っ先に飛び込んでくる色は、緑である。
ただの緑と言っても、よく見ると、緑はとても多様である。

植物の種類によって、葉の色が少しずつ違う。雑草と呼ばれる植物だらけの庭を眺めていても、植物の種類ごとに色合いが異なることがわかる。さらには、1本の草花でも、一枚一枚の葉っぱの色は少しずつ趣が異なる。
季節の変化を感じることもできる。春夏秋冬をかけて、新緑のやさしい緑が濃い緑に次第に変化し、やがて赤や黄色、そして茶色がかって消えていく。

同じ景色を見ることを繰り返すうちに、見ること自体に深さがあることに気づく。
見える世界の深さには、グラデーションがある。

一つ一つが特別な色

色紙の緑と自然の緑

以前、フリースクールの授業として、色紙を持って外を散策しながら、自然の色を探したことがある。
色紙を片手に、見つけた植物と並べて見比べ、同じ色かどうかを感覚的に判断する。
そこではすぐに「緑の葉」と「緑の色紙」が、異なる色だと気づく。むしろ、緑系統の色紙は同じ色がなかなか見つからない。
自然の緑は、折り紙の緑とは何かが違うのだ。

理科的な話になるが、植物のもつ色素の多くは、光合成を担う色素である。
代表的な光合成色素が、クロロフィルという色素で、ほかにもカロテノイドという色素がある。

クロロフィルは青や赤の光をエネルギーに変え、緑や黄色の光を反射する。そのため、私たちには植物が緑色に見える。
カロテノイドという色素は主に青い光を吸収して、黄色やオレンジ色の光を反射する。秋にイチョウの葉が黄色く見えるのは、クロロフィルが分解され、カロテノイドの色が残るからである。
光合成には関わらないが、アントシアニンという色素もある。紫外線の吸収作用があり、強すぎる光から葉緑体を守る役割がある赤色の色素だ。紅葉は、このアントシアニンによってもたらされる。

つまり、少なくともクロロフィル、カロテノイド、アントシアニンという色素が葉の色に関わっている。さらに、落ち葉の褐色の色素、フロバフェンなど、植物の色彩には多様な色素が関わっている。一枚の緑の葉っぱにさまざまな色素が混ざり合い、葉全体の色が構成されている。

葉っぱはただの緑ではなく、さまざまな色成分の混ざり合った、一つ一つがスペシャルブレンドの緑なのである。

小さな自然という入り口

地面の隙間のカタバミ

糸島の古民家のような自然豊かな場所でなくても、たとえ市街地であっても、ちょっとした隙間には草花が生えている。人工物の多い都会であれば、かえって点々と現れる緑が目立つ。それらの緑を見比べることは田舎よりもしやすい。

たとえば、コケ類の緑。ふだんはコケに種類があることさえ意識しないかもしれないが、見るとコケの種類によって色が異なることに気づく。また、乾いているときと湿っているときでは、驚くほど色が違う。小さな霧吹きで水を与えて、色の変化を観察するとよくわかる。
カタバミのような草も見つかる。カタバミの葉は、環境によって色が異なるようで、アスファルトの多い場所には赤っぽいものが多い。

より深く見たいときは、草花を少し持ち帰るのも良い。
そのまま空きビンに挿して見たり、ときには画用紙ではさんで、平らな下敷きの上に乗せ、トントンと木づちなどで叩くのもおもしろい。叩くとつぶれて、出てきた色素が紙を染め、草花の形が色として残る。色素によっては、お酢を筆で塗ると色が変わることもある。

こんな風に、自然を見るという行為は、意識的に深めることができる。
身近にある自然を見ることは、自然との多様な関わりの入り口である。

世界は心で描き出す

レンゲの花畑

色というのは不思議なものである。
色は物理的には存在しない。光は電磁波の一種であり、連続的な波長の違いがあるというだけである。色はあくまで、生きものが脳内で(言い換えれば、心で)生み出しているものなのだ。

さらに言えば、心が生み出すものは色だけではない。生きものは、心という画材で世界を描いているとも言える。心が一人ひとり違うのであれば、描く世界が一人ひとり異なっていても、何もおかしくはない 。

それなのに、昆虫も人間も花に惹かれるというのは不思議なことである。
植物は花粉を運んでくれる昆虫にアピールするために、花という器官を生み出したはずである。チョウと人間は生きものとしてかけ離れていて、描く世界はまったく異なるはずなのに、同じように花に魅力を感じているのである。
生きものはみんなどこかで相通じる心を持っているのではないかと思わされる。

心で感じる暮らし

ゆっくりと生きたい

私たちは見ることが当たり前になりすぎて、目で見るものが世界のすべてだと思いがちである。
でも、見ることは、あくまで世界の入り口に立ったに過ぎない。より深く、より豊かな世界が、その奥に広がっている。より深く見て、より多くの感覚で感じて、心を動かし、身体を動かし、見えている自然をさらに豊かにすることができる。
都会であっても、田舎であっても、同じことが言える。

糸島の古民家に居ても、せわしない日常では自然を見る目が疎かになる。
目で見た世界を、心で感じる物事を、大切にして暮らしたいものである。


三ツ矢青空たすき編集部より:人はつい「自然」を求めて海へ山へと出かけていこうとするけれども、実は普段から私たちは大いなる自然の一部で、自然は自分のくらしのすぐそばにあることを野島さんの言葉からいつも気づかされます。

毎朝の出発をあと5分早くすることで、街路樹の微妙な変化を観察したり、軒先や花壇の中に自分の好きな色を見つけようと見まわすだけでも毎日通る道の見え方が変わり、季節の移り変わりをキャッチすることができ、日々が彩りを増していきそうです。

遠い昔幼き頃、道端の小石の色に感動し、宝石のように大事にポケットにしまったあの日のように。

第1回:かぐ・あじわう―ただそこにある自然を楽しむ―

語り部一覧

ネイチャーライター /
野島智司さん
ネイチャーライター、作家、かたつむり見習い。
糸島市を拠点に、身近な自然をテーマにした個人プロジェクト「マイマイ計画」のほか、自然と子どもによりそう場を開く「小さな脱線研究所」を主宰。糸島のフリースクール「NPO法人産の森学舎」「おとなとこどもの学校テトコト」で授業を担当するほか、筑紫女学園大学非常勤講師も務める。著書に「カタツムリの謎」(誠文堂新光社)などがある。新刊も鋭意執筆中。

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