ちいさな自然と五感でつながる
第3回:ふれる―ふれることは、ふれあうこと―
※ 全4話の 3話目
※今回のエッセイは、カエルの卵やかたつむりの写真がございますので予めご承知おきください
はだしにならないおとな
子どものころ、はだしで草の上に立つのが好きだった。
靴を脱ぎ、草の生えた地面の上にはだしでそっと立つ。土や植物のしっとりとした感覚が足の裏に伝わる。
それなのに、おとなになって、そういうことをしなくなった。
汚れるとか、危ないとか、そんなことが気になるからなのか。というか、単に面倒くさいのか。
確かに、自然には毒のある生きものやトゲのあるものもある。むやみにはだしで歩くわけにはいかない。
けれど、ある程度安全な場所なら、靴も靴下も脱いで、そっとはだしで地上にふれてみるのも悪くないはずだ。
肌にふれるという感覚は、特別なものである。
肌でふれることで、一本一本の植物、そして大地を、感じることができる。
ふれることへのためらい
何かにふれようとするとき、私たちは自然に相手との距離感を意識する。
相手がよく知らぬ相手だと、そこにはためらいが生まれる。
私はフリースクールなどで、子どもたちが自然とふれあう場づくりにかかわっている。
そこで、子どもたちがさまざまな生きものと出会い、ふれる場面に立ち会っている。
たとえばカエルの卵と子どもとの出会いの場面。
最初は「きもい」という言葉から始まる子が少なくない。
しかし、「きもい」と言っている子でも、たいていはその奥に「ふれてみたい」という気持ちがある。
最初はちょっと距離を置いて観察しながら、だんだん近づき、やがてそっと手を伸ばす。
「つめたい」
「やわらかい」
おそるおそるふれたあとには、そんなつぶやきが聞こえてくる。
「きもい」は、「わからない」「こわい」という感情を表明したに過ぎない。
そんなためらいを飛び越えた瞬間、新しい何かが生まれる。
そんな瞬間こそ、自然にふれる体験の醍醐味である。
ふれる感覚主体の生き方
私の敬愛する生きもの、カタツムリのことを書いておこう。
カタツムリは何より、ふれることを大事にしている。
私たちは感覚の多くを視覚に頼っているが、カタツムリの感覚の多くは触覚、つまりふれる感覚が担っている。
カタツムリはからだ全体で大地に密着し、その質感を感じているだろう。さらにツノ(触角)を振りながら、ツノでふれることでもまた、世界を知っていく。
大きなツノの先にある目は、光の明暗を感じる程度と言われていて、私たちのようにレンズで像を結んで物の色や形を確かめることはできない。
目で見るよりも、這い回りながら地面にふれて、障害物にふれて、食べ物にふれて、ときには繁殖相手や他の生きものにふれて、この世界を知っていく。
そんなカタツムリの生き方を、私は見習いたいと思う。
ただ見るだけではわからないことを、ふれる感覚は教えてくれる。
ふれることはふれあうこと
忘れてならないのは、「ふれる」ということは常に「ふれあう」ことであるということ。
私が誰かを見ているとき、その相手は私を見ていないかもしれない。でも、私が誰かにふれているとき、その誰かは必ず私にふれている。
ふれることは、ふれあうことなのだ。
そのため、ふれるときには相手のことをより深く考え、尊重しながらふれることになる。
ふれることで、ふれた先に、相手の心があると気づく。
私の幼少期、カタツムリを好きになった原体験の1つは、カタツムリにふれたことだ。
当時住んでいた東京。近所のブロック塀に、カタツムリが集まる一角があった。
幼いころ、小さな手のひらにつかまえたカタツムリをのせた。そして、カタツムリたちが手を這い回る感触が好きだった。
それは、カタツムリの心にふれている時間だった。
カタツムリはこちらの姿を目で見ることはできない。もし人とカタツムリが心を交わす瞬間があるとしたら、それはふれているときであろう。
生きものにふれるリスク
生きものとふれあうことは、リスクが伴う。
やさしくふれているつもりでも、生きものを知らず知らずに傷付けたり、弱らせたりしてしまうことがある。とりわけ、カタツムリやカエルなどは皮膚が薄くやわらかく、体温も人間とは差がある。人がふれるだけでも少なからずストレスになるだろう。
また、人の側にもリスクがある。カエルなどの両生類の多くは毒成分を分泌するし、カタツムリだって寄生虫の心配がある。当然、あとで手を洗うことが必要である。
そうしたリスクをゼロにするなら、ふれあうこと自体をやめるべきだろう。
だが私には、それが良いとも思えない。
生きものを尊重するためには、むしろふれあうことが必要だと思っている。
変温動物は体温に差があると言っても、少しふれただけでいわゆる「やけど」をするわけではない。
また、手を洗うことは、(新型コロナ対策で推奨されたように)感染症予防のためには常に必要なことである。
とはいえ、ふれることに抵抗を感じている人が、無理にさわる必要もあるまい。
手に乗せることに抵抗を感じるなら、そっとカタツムリのツノにふれるだけでも楽しい。
ツノにふれると、ツノがみるみる縮んでいく。
ふれかたによって、あるいは個性の違いによって、ツノが少しだけ引っ込むこともあれば、からだ全部が殻に引っ込んでしまうこともある。
すぐに元通りにツノを伸ばすものもいれば、当分殻から出てこないものもいる。
ふれることで、生きものは応答する。
その応答をしっかり感じることで、相手が生命であることを実感する。
大地にふれよう
たまにはおとなが、手足をどろんこにするのも悪くない。
私は木のねんどを使ったへんてこモンスターをつくるという活動を行っているが、このアイデアの原型も、どろんこ遊びである。
単に遊ぶというのは、おとなには難しいことだろう。その意味では、田畑の作業というのも良い。
身の回りが生命であふれているということは、多くの人は頭ではわかっているのかもしれない。
実際に土にふれることで、それがより深く、実感できる。
講師としての立場が多く、どうしても「はだしはあぶない」と伝えることのほうが多くなりがちな今日この頃である。
たまには私も靴を脱ぎ捨て、土を感じて、大地にふれてみよう。
三ツ矢青空たすき編集部より:
今回も野島さんのエッセイを読みながら、日常の中に新しい世界を見出したような心持ちがしました。
野島さんの言葉からは、植物や虫たちに人間と同じ「生命」として向き合う姿勢、命の息吹を感じようとする気持ちがあふれています。
変温動物のくだりでは、自分が人間に触られたカエルになったつもりで、「わぁ、なんか熱いなぁ!」と初めて妄想してみました。
「ふれる」感覚を取り戻すため、週末は砂浜を裸足で歩いてみたいと思います。
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