第4回:きく・そうぞうする―小さな声に耳を傾け、思い描く―

※ 全4話の 4話目

まずは、まぶたを閉じてみる

自然の音を感じる

自然の中で、そっとまぶたを閉じてみよう。
すぐに世界は暗闇に包まれる。

ほどなく聴こえてくるのは、自然の音である。

枝葉のこすれる音。
水滴が地上に落ちて、はじける音。

鳴き交わす鳥の声。
草むらからは虫の声に、カエルの声。

自然の音色の織りなす世界が、まぶたを閉じると、いっぺんに広がる。
まるで生身のまま宇宙空間に飛び出したかのように、別の世界へとワープすることができる。

感覚とは、ふしぎなものである。
まぶたを開いていたときだって同じ音が聞こえていたはずなのに、視覚を遮断することで初めて感じる世界があるのだ。

余白のない世界

糸島の海

現代は、小さなディスプレイから飛び込んでくる視覚刺激であふれている。
手のひらサイズのスマートフォンからは、「映(ば)える」映像があふれんばかり飛び込んでくる。
視覚はとても忙しく、想像をふくらませる余白がない。

糸島に全国的な注目が集まるのも、もしかすると、きっかけには「映える」景色の多さがあるのかもしれない。
ただ、どれほど息をのむような美しい景色であっても、それが自分の生きる世界を構成するものではなくて、日常と切り離された刺激的な映像として消費するだけのものだとしたら、どこかさみしい。

視覚の世界は、今、危機にあると言ったら大げさだろうか。
「映える」景色も、本来はふだんの何気ない日常と地続きのものである。
ちょっとの余白があれば、心が休まり、想像は膨らむ。
きっとスマホの画面の外側に、無数の小さな輝きが隠されている。

生きものたちの声

カエルの声

まぶたを閉じ、視覚を遮断するだけで別世界のように感じられるのは、私も日常的に視覚に頼って生きているからである。

とはいえ、ふだんは自然の音を何も感じていないというわけではない。
風が吹けば風の音が、雨が降れば雨の音がする。
それから、生きものの声。

季節の変化を感じるものは、植物の変化もあるが、生きものの声の変化が実は大きい。
例えば、カエルの声は季節によって変わっていく。
寒い時期から鳴くニホンアカガエル。暖かくなってくるとコロコロコロというような声で鳴くシュレーゲルアオガエル。田植えの時期に田んぼで大合唱するヌマガエル。鳥の声、虫の声、生きものたちが発する声は、季節によって変化する。

生きものたちの声は、私たちの生きる環境世界を、少しずつ彩っている。
自然のなかで生きていることを実感する。

カタツムリが食べる音

ブロック塀で食事をするカタツムリ

何気ないありふれた自然に気づくために、いっそのこと、目を瞑(つむ)ってしまうのは良い手である。
周囲が自動車のエンジン音ばかりだとしても、その合間の一瞬に、ただ風で揺れている枝葉の音を感じることができたなら、それが特別な世界を彩るものになり得る。

私の好きな本の1つに、エリザベス・トーヴァ・ベイリーの『カタツムリが食べる音(原題“The SOUND of a WILD SNAIL EATING”)』(高見浩訳、飛鳥新社)というノンフィクションがある。原因不明の難病に見舞われ、寝たきりの生活を強いられた筆者による、一匹のカタツムリとの交流の物語である。

ここで内容について詳しくは触れないが、本書のタイトルである「カタツムリが食べる音」は、実際に聞くことができる。
心を落ち着けて、そっと耳を傾ければ、かすかにその音が聞こえる。
カタツムリはヤスリのような歯で、食べ物を削り取るように食べる。特に乾いた物やかたい物を食べるときには、ザリ……ザリ……とか、カサ……カサ……というような音がする。

食べる音が聞こえると、たしかに生きていると感じる。 小さな口でどのように食べ物を食べているのか、目に見えないミクロな物事にまで、想像がふくらむ。

妖怪を想像する

夜の森

私は幼い頃から水木しげるの妖怪事典を読んで育った、妖怪ファンでもある。
かつての日本には、たくさんの妖怪がいた。そして、妖怪の多くは、自然のなかの原因不明の物事から、想像をふくらませることで生まれたものであるらしい。

たとえば、鵺(ぬえ)という妖怪は、夜に鳴くトラツグミという鳥の声に由来すると言われている。
私は学生時代にコウモリの調査をしていたので、夜の森で実際にトラツグミの声を耳にしたことがある。
夜の闇から、まるで口笛のようなフィー、フィーという音がどこからともなく聞こえてくる。それだけでも不気味なのに、音の聞こえてくる方向が、みるみるうちに変わっていく。初めて聞いたときは、この世のものではない得体の知れない存在を想像せざるを得なかった。
そんな経験があるので、かつて鵺という妖怪を想像した人がいたというのも、うなずける。

音は、さまざまな想像をかき立てる。
自然に対する知識が深まるような想像もできるし、妖怪のような空想的な想像も広げられる。
どんな想像を広げるかは、その人次第である。

理解しようとし続けること

音から想像する

視覚の怖いところは、人をわかった気にさせるところである。
目で見れば、それだけですべてを理解したような気になる。

実際には、完全な理解などあり得ない。自然が相手でも、人間が相手でも、相手のすべてを理解し尽くすことはない。
それなのに、理解したように錯覚すると、より深く想像することをやめてしまう。

カタツムリはいつまで観察していても、わからないことだらけである。相手を理解できないからこそ、想像力を使って、いつまでも理解しようとし続ける。
それがいい。

その点、聴覚には、余白がある。想像させる力がある。
音は想像を広げるための手がかりとなる。

自然に一歩ずつ、近づく

身近な自然をより深く、豊かに感じる

もっとも、いつもまぶたを閉じている必要はないだろう。
視覚には視覚の良さがある。あらゆる感覚で自然を感じられたら、それが一番良い。

まぶたを閉じ、音の世界で空想を広げた後は、ふたたびまばゆい光のある世界に戻ろう。
まぶたを閉じたときにふくらませた想像は、五感でも捉えきれないものを補ってくれる。
身近な世界を一層深く、思い描けるような気がする。

耳を傾け、想像することは、今ここにある世界を、より深く、より豊かで、愛おしいものにしてくれる。
ついでに言えば、身近な自然に対してだけでなく、身近な人に対しても、同じように耳を傾け、想像をふくらませていたいものである。


語り部一覧

ネイチャーライター /
野島智司さん
ネイチャーライター、作家、かたつむり見習い。
糸島市を拠点に、身近な自然をテーマにした個人プロジェクト「マイマイ計画」のほか、自然と子どもによりそう場を開く「小さな脱線研究所」を主宰。糸島のフリースクール「NPO法人産の森学舎」「おとなとこどもの学校テトコト」で授業を担当するほか、筑紫女学園大学非常勤講師も務める。著書に「カタツムリの謎」(誠文堂新光社)などがある。新刊も鋭意執筆中。

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