こども目線で自然と出会う
第1回:「よちよち歩きで出会うもの」
春が訪れると、庭の池にはたくさんの小さな生きものが姿を現す。
まだ寒さの厳しいうちからカエルの卵が目につくようになり、それらはやがて無数のオタマジャクシとなってゆく。
それと同時に、オタマジャクシを食べる生きものたちも出てくる。ヤゴ、イモリ、水生昆虫などである。
その間に、草花も芽を出し、伸びてゆく。
なかでもうれしいのが、セリ。
セリという植物は、湿った陸上でも水中でも元気に育つ。春の七草の1つで、香りが良く、食材としても美味しい。

古くて要所要所に修繕が必要な、古民家の我が家。そこにある、庭の池。
池にはできるだけ人為的に生きものを導入せずに、自然に生きものが棲みつくままにしている。(こうした自然に集まる生きもののすみかのことを、ビオトープという)
この家に暮らす私が、季節の移り変わりを最も実感するのは、この池を見ているときかもしれない。
毎年新たな命が生まれては消え、季節によって移り変わっていく。

そんな小さな生きものの世代交代に比べ、人間の成長とはなんとゆっくりだろうか。
人間は、生まれてすぐに自力で移動することすらままならない。
新生児にとっては、手足が自分の体の一部であると気づくことすら偉大な発見のように見える。
だんだん座ることができるようになり、ハイハイできるようになり、つかまり立ちをして、やがてよちよち歩きを始める。それまでにおよそ1年半もかかる。
人間は成長のプロセスそのものが、よちよち歩きで、ジグザグである。
現在8歳になる長男はハイハイをしないまま、つかまり立ちをするようになり、よちよちと歩き出すようになった。
こどもは自由で、理論通りにも、おとなの意図通りにも、ならない。
それがなんだか自然に近い存在であるように思えて、ときにうらやましくなる。

こどもは遊びながらゆっくり育つ。
よちよち歩きをする時期は、自分の足で歩き、自分の力で移動すること自体が大きな喜びであり、楽しくて仕方がないのだろう。転んで痛い思いをしても、また歩き出すのが良い証拠である。
なかでも、水たまりの魅力は圧倒的である。
もちろん大きな電車や踏切も魅力的だが、ふれて遊べる水たまりの魅力はそれに勝るとも劣らない。
こどもは雨靴を履いているときも、そうでないときも、水たまりを踏みつける。
パシャンとはねる水滴が、靴をぬらし、ズボンをぬらし、ときには頭まで飛び散る。
ジャンプで水たまりを飛び越えようとして、思い切り水たまりに飛び込むこともあるし、なんならわざと飛び込むこともある。
泥水だらけになる姿を、笑顔でありのままに見守るというのは、おとなにとって、いつもできることではないだろう。
それでも、いつもとはいかなくても、できるときには思い切りさせてあげたいと思う。
ところで、生きもののなかにも、水たまりが好きなものがいる。
たとえば、庭の池に産卵するカエルであるニホンアカガエルは、しばしば水たまりにも産卵する。
そのまま卵が水たまりで干上がってしまってはいけないので、見つけるたびに私やこどもたちは、卵のカタマリを手で運んで、池に移している。
こどもは水たまりが好きなので、水たまりの生きものにもすぐに気が付く。
水たまりにあるカエルの卵にもすぐ気づいて、教えてくれる。

こどもはただでさえ、目線が低い。
そうした地面との距離の近さもまた、生きものとつながりやすい要素である。
地上を歩くダンゴムシを見つけて、座り込むこども。
その隣に、私も座り込むと、立っているあいだは見えなかったものが目に入る。
タンポポ、ナズナ、キュウリグサ、ハコベなどの小さな花。
ダンゴムシをつかまえようと手を伸ばすと、さらに他のダンゴムシやワラジムシが現れる。その横には、小さなカタツムリもいる。
ちょっと座り込むだけで世界は広がり、次々と自然に出会う。まったく異なる視界が開ける。
こどもたちは、いつもこんなふうに世界を見ているのだろう。

こども自身はおそらく、自然とそうでないものを区別していない。人工物であろうと自然物であろうと、ありのままの世界をそのまま受け入れている。
ただ、こどもが自分の気持ちに素直に動いているとき、いつもすぐそばに、小さな生きものたちがいる。
こどもは自然が好きなのではなく、外で好きと思うものが、たまたま自然なのだと思う。
おとなには嫌われているような生きものでも、こどもは意外と平気である。
もちろん、おとなが嫌っているとその影響で嫌うことはあるし、知らないものは怖がったりもするが、ささいなきっかけであっさり変わる。
危険な生きものには気をつけなければならないが、こどもにはなるべく自由に自然にふれてほしい。

私たちおとなは、後先を考えすぎて、うまくいくこともあるが、空回りすることも多い。ときに、悩んで頭の中で思考がぐるぐる回る。
こどもは後先考えず、好きな方に向かう。
そして、たまに困ったことをする。
それが、いい。
時間感覚もきっと、おとなとこどもでは違う。
こどもの生きてきた期間は、おとなよりも小さな生きものたちの生きてきた期間に近いのだ。
つい過去や未来のことを考えてしまうおとなに対し、こどもは今この瞬間を、小さな生きものたちと同じように感じるのかもしれない。
自然と共にある暮らしは、理想的であるし、持続可能な社会のために目指さなくてはならないものでもある。
でも、もしかしたら、「自然にふれよう」などと声高に訴えなくても、強く意識しなくても、いいのかもしれない。
ただ外の空気に触れながら、おもしろそうなもの、好きなものを心で見つける。不意に出会う。
暮らしのなかでそんな体験を重ねていれば、自ずと人は、自然を好きになっていくのではないだろうか。
こどもたちはそんなことを、身をもって伝えてくれている。
三ツ矢青空たすき編集部より:
誰もが昔は「こども」だったのに、大人になるとまるで自分は「こども」ではなかったかのように、子供たちの好奇心まっしぐらの行動をたしなめたり、人の目を気にしたりしてしまいますね。
でも本当は自分の五感に正直に生きている子供たちがうらやましいのです。
都市に暮らす私たちは、自然を求めて山へ海へと出かけていこうとするけれど、実は部屋を出たすぐそばに自然の入り口があり、あちこちに小さな命があふれていることを野島さんに気づかされます。
見るもの全てに驚き、考える前に行動していた子供のころに戻って、もう一度自然を感じてみたいと思いませんか。見慣れた世界がキラキラと違う表情を見せるかもしれません。
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