第3回:「こどもが名付ける」

※ 3話目

 こどものころ、「たこちゃんすっぱ」と呼んでいた植物がある。
 その植物の正式な名称(学術的には「標準和名」と言う)は、ススキである。

 幼いころ、飼っていた猫と遊ぶために、いわゆる「ねこじゃらし」(エノコログサ)をよく道端で摘んでいた。しかし、7歳のころに東京都から大分県の山奥に引っ越した際、猫と遊ぶのに使えそうな背の高い草が周りにたくさん生えていることに気づいた。それが、ススキだった。
 実際、当時は子猫だった我が家の猫は「たこちゃんすっぱ」でいつもたくさん遊んでくれた。私にとっては、猫との関係を深めてくれた特別な植物だった。

猫と遊んだススキの穂

 どうしてススキを「たこちゃんすっぱ」と呼んだのか、はっきりとした記憶はないが、おそらくこうだろう。
 私は当時、ススキという名前を知らなかったが、無数に枝分かれしたススキの穂が「タコ」を連想させた。そして、普通のねこじゃらしに比べるとかなり背が高くて大きいことから、名前に「スーパー」を付けた。その結果、「たこちゃんスーパー」となり、それがさらに「たこちゃんすっぱ」へと変化したのだろう。

こどものころの私と猫

 名前を付けると、数ある草の1つだったものが、特別な存在として浮かび上がるようになる。そのとき与えた名前は、必ずしも「正式な名称」でなくてもかまわない。「たこちゃんすっぱ」は、私にとってまさにそんな名前だった。
 一方、正式な名称が呼びやすいものもある。たとえば、私もこどものころから好きな花が、タンポポである。タンポポは語感がかわいらしく、呼び名としてこどもにもなじみやすい。それから、エノコログサを「ねこじゃらし」と呼んだり、ナズナを「ぺんぺんぐさ」と呼んだり、生物学的な名称ではないが、一般的に知られているおなじみの言い換えもある。
 こうした、こどもにも呼びやすい名前、親しみを持てる名前というのは、大切にしたい。

道端のセイヨウタンポポ

 きっと昔は、方言がそのような役割を果たしていた。
 たとえばカタツムリは、地方名がたくさんあったことで知られている。民俗学者の柳田国男の『蝸牛考』(かぎゅうこう)(1930年初版発行)によれば、当時、日本のカタツムリには240種類あまりの地方名があった。それらの多くはこどもが遊びのなかで名づけたものだったという。
 こどもが自由に遊び、自然に触れている場所であれば、きっとそうしたオリジナルの呼び名が自然と生まれてくる。

 実際、私も経験したことがある。キセルガイという細長い殻を持つカタツムリがいて、地域によっては市街地でも数多く見られるカタツムリだが、ある保育園のこどもたちがそれを「かいむし」と呼んでいた。確かに、カタツムリというより「かい」と呼んだほうがしっくりくる形状だし、陸にいることを考えると「むし」と呼びたくなる気持ちもわかる。「キセルガイ」という名は昔ながらのたばこ「煙管(きせる)」から来ているが、今のこどもたちにはなじみがないものだ。

キセルガイの仲間

「かいむし」と呼ぶこども

きせる(「キセルガイ」の名の由来)

 今よりも豊かな自然が残され、異年齢のこどもたちが群れて遊んでいた時代であれば、こうした新しい呼び名が生まれ、自然に受け継がれるということを想像しやすい。
 一方、現代のこどもたちは、実物の自然に触れるよりも、学校や図鑑、インターネットを通じて「正しい名称」を先に知ることのほうが多いのかもしれない。それではさみしいし、自然に対して愛着を持つきっかけを失わせてしまうのではないかと心配になる。
 その点、キセルガイが「かいむし」と呼ばれていたことは、なんだかうれしい出来事だった。

ハンミョウ(人が歩く先へ先へと移動するので「ミチオシエ」という異名をもつ)

 そういえば、私はこどものころ、ハンミョウという昆虫のことをなぜか「ヒラタアブ」と呼んでいた。
 ヒラタアブという名前のアブも実際にいるが、ハンミョウとは姿形もまったく違う。呼び名としては完全に誤りである。それなのに、なぜそう呼んでいたのか、今となってはまったく思い出せない。きっと何らかの記憶違いから始まったのだろう。

 でも、「正しい」「間違い」という言葉は、なんだか重すぎる。「正しい名前」と言われると、そうでなければならないような気がしてしまう。
 そのため、こどもたちに名前を伝えるときには、私はできるだけ、「正しい名前は○○だ」という言い方はしないようにしている。「図鑑では○○という名前で載っている」とか、「僕は○○って呼んでいる」という言い方を心がけている。

 とはいえ、それでももしハンミョウを「ヒラタアブ」と呼んでいる子がいたら、私はきっと訂正してしまうんじゃないかと思う。もしかしたら、何か理由があるかもしれないのに。
 呼び名には、その子と自然との関係性が反映されている。だから、「間違い」のように感じたとしても、できるだけ大らかに受け止め、なぜそう呼んでいるのかということを大切にしたい。

カラスノエンドウ(草笛が作れることから「ピーピー豆」との呼び名がある)

 大人になった今、私は身のまわりの多くの生きものについて、正式な呼び名を知ってしまっている。それがなんだか、申し訳ないと思う。我が家のこどもたちは今のところ、身のまわりの生きものを正式な名前で呼んでいるが、なんだか悔しくも思う。私が名前を呼んでしまうために、その名前で覚えているのだろう。

 たまに「のじーさんは自然に詳しいから、こどもに名前を教えてあげられるのがうらやましい」と言われることがある。けれど、私にとっては、名前がわからないという状態をこどもと共有できることも、とても魅力的だ。知っているのにあえて言わないというのも不自然で、なんだか意地悪をしているようにも感じる。それよりも、こどもの立場で、こどもに寄り添いながら、共に名前を付けることができるなら、それが一番良いと思っている。私にも名前のわからない生きものは多いが、目立たないものが多くなりがちである。

 私はきっと、こどもたちが好きな生きものに好きな名前を付けられるように、何らかの“余白”を残す必要がある。
 私が外部講師として関わっているフリースクールの活動では、こどもたちに「カレー味のクモ」「チョコレート味のクモ」などと呼ばれているクモがいる。こどもたちがクモを体の色で区別して名付けたようだ。(念のため付け加えておくが、実際に食べて味わっているわけではない。)
 名付けたこどもたちが卒業した今でも、そうしたクモの呼び名は残り続けている。いずれこどもたちが正式な名称を知る機会もあるかもしれないが、「カレー味のクモ」という呼び名は、いつまでも残っていてほしい。
 私がクモの種類に詳しくないという“余白”も、案外、悪くない。


第4回:「カタツムリに出会うとき」

語り部一覧

ネイチャーライター /
野島智司さん
ネイチャーライター、作家、かたつむり見習い。
糸島市を拠点に、身近な自然をテーマにした個人プロジェクト「マイマイ計画」のほか、自然と子どもによりそう場を開く「小さな脱線研究所」を主宰。糸島のフリースクール「NPO法人産の森学舎」「おとなとこどもの学校テトコト」で授業を担当するほか、筑紫女学園大学非常勤講師も務める。著書に「カタツムリの謎」(誠文堂新光社)などがある。5月に新刊「カタツムリの世界の描き方」(三才ブックス)を出版。

みんなの感想

  • ぺんぎんさん

    素敵なお話しありがとうございます。

    色々な自然との話ありがとうございます。子供って名付けの天才ですよね。あだ名も。たまに無意識の悪意も入りますが。ですが植物に関してはあまり悪意ある名前は見かけない気がします。(知らないだけであるかもですが)そしてストレート!通称よりよほどわかりやすい場合もありますよね。たこちゃんすっぱも謂れを聞くと可愛いですし、ありそう。カレー蜘蛛じゃなくてカレー味蜘蛛は蜘蛛嫌いとしては更に受け入れ難いですが。(笑 ...全文を読む

    • 三ツ矢青空たすきスタッフ

      身近なものに ”言い得て妙” な名前をつけられるのは、ほんとうに 子供特有の素朴な、天才的な感覚ゆえですよね。 野島さんのエッセイには、そういった子供の頃の感覚を思い出させてくれるエッセンスが いつも効いていて、読み終えるとほっこりします。 このエッセイの読者のうち何名かの方々に、エリアや年齢層を超えて、ススキが “たこちゃんすっぱ” と呼ばれるようになっても楽しいですね! また次回のエッセイも ...全文を読む

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