第4回:「カタツムリに出会うとき」

※ 4話目

 雨の季節である。
 ここはやはり、カタツムリのことを書いてみよう。


「どうしてそんなにすぐカタツムリを見つけられるんですか」

 おとなとともに自然散策していると、よく聞かれる。私は「かたつむり見習い」を名乗るほどのカタツムリ好きなので当たり前のことなのだが、たいていのおとなはカタツムリを見つけるのがむずかしいようだ。

 ところが、こども相手の場合はそうとも限らない。
 おとなと同じように「どうして見つけられるの?」などとを聞かれることもあるが、それ以上に、私も気づいていないのに「あそこにいる!」と指をさされ、私も目をこらしてようやく見つける、ということがよくある。
 もちろん、数ミリ程度のごく小さな種類のカタツムリは例外である。私が教えないと、こどもが見つけることはあまりない。
 けれど、一般的な大きさのカタツムリであれば、こどものほうがよく見つけてくれる。これはいったい、どういうことだろう。

 自然体験イベントのような場に来てくれるこどもは、もともと自然が好きという場合も少なくない。なので、そうしたこどもはカタツムリを見つけるのに慣れているのかもしれない。しかし、それだけでは説明しきれない。おとな対象のイベントだって、自然が好きなおとなが集まっているはずである。
 きっと、こどもはカタツムリと相性が良いのだ。きちんとデータをとったわけではないが、そんな実感がある。

 こどもがカタツムリと出会いやすい理由の1つは、その目線の高さにある。つまり、こども目線である。

 カタツムリは、日差しが苦手だ。湿り気のある場所や、じめじめした天気の日でないと、殻に引っ込んで休んでしまう。休む場所としては、大きな葉っぱの裏側や、木の枝の下を選ぶことが多い。
 そんなときにカタツムリを見つけるには、上から見下ろすような目線よりも、下から見上げるような目線のほうが見つけやすい。アジサイのような低木の葉の裏に隠れていることも多い。そうなると、やはりこどもの目線で探さないと、なかなか見つけることはできないだろう。

 そして、もう1つが時間感覚である。

 おとなになると、人は時間感覚が変わり、目的に向かって効率的に行動するようになる。自然は遊びの場ではなく、移動のための手段になってしまう。せかせかと歩き、途中の木々にどんな生きものがいたかなど、気にも留めなくなってしまう。
 一方、ゆっくりした動きの生きものは、ゆっくりとした時間のなかで探さないと、なかなか見つからないものである。
 私自身、急いで「カタツムリを見つけよう」と思うと、ふしぎとなかなか見つからない。それよりも、「今日はいてもいなくてもいい」くらいの、ゆったりした気持ちのときのほうが、カタツムリに出会える。

 ところで、おとなからは「カタツムリって見なくなりましたね」と言われることが多い。
 これは、カタツムリが減ったということなのだろうか。

 たしかに、都市化の進行はカタツムリにとって脅威である。
 一部の外来種を除き、多くの地域ではきっとカタツムリの個体数が減っている。

 青信号のタイミングで横断歩道を渡れるカタツムリなどいないのだから、道路が一本できるだけでも、大きな障害になる。さらに新たな土地開発があれば、カタツムリの生息地は大きく失われてしまう。ヒートアイランド、地球規模の気候変動の影響もあるだろう。除草剤の使用、侵略的外来生物の広がりなど、カタツムリの減少に拍車をかけるものを数え上げればきりがない。

 都市部のカタツムリの個体数が減っているとすれば、人とカタツムリが出会う機会が少なくなるのも無理はない。

 一方で、人とカタツムリの出会いの機会が減った理由は、個体数の減少だけではないと私は思っている。カタツムリとよく出会うような地域でも、「カタツムリを見ない」という声を耳にすることは少なくない。
 先ほど述べたように、おとなになるとカタツムリを見つけづらくなる。目線が高くなり、時間感覚も変わってしまうからだ。

 けれど、そんなおとなにも、カタツムリとよく出会う時期やタイミングがあると感じている。
 それは、ゆううつなときである。

 悩んでいるとき、人はうつむきがちになる。ゆっくりと、とぼとぼ歩く。時間もゆっくりと流れる。ときには誰にも会いたくなくて、あえて雨の日に、傘で顔を隠すように歩いたりもする。
 カタツムリがいるのは、葉の裏や枝の下ばかりではない。特に雨の日などのじめじめした日には、地上に下りて、道を横切る。
 そんなとき、うつむいて歩く人は、地面を歩くカタツムリに出会いやすくなる。

 さらに私の場合は、ゆううつなときほど、回り道をしたくなる。
 通りかかった森や公園で、カタツムリと出会うということも少なくない。

 そして大切なのは、そんなときにカタツムリと出会うと、気持ちが癒されて、また前を向いて歩けるようになるということ。
 カタツムリに心が救われた経験のある人は、実は少なくないと思っている。

 カタツムリはこどものほうがよく出会い、おとなになると出会いにくくなる。

 こどもにとって、カタツムリは大切な遊び相手である。
 すぐに引っ込んでしまうが、待っているとゆっくり出てくるカタツムリには、他の生きものはもちろん、他者との付き合い方のヒントがたくさん隠れているようにも思う。

 おとなにとって、カタツムリはゆううつなときに現れて、心を癒してくれる存在である。
 子どものころに遊んだ人なら懐かしさを感じるだろうし、しばし時間を忘れさせてくれる存在にもなるだろう。
 少なくとも、私にとってカタツムリはそんな存在である。

 もちろん、元気なときに出会うカタツムリもまた良いものである。
 ほっと一息ついて、また歩み出すエネルギーをくれる。


 雨の季節。

 小降りの日にはちょっと散歩に出てみよう。
そんなふとした出会いが、すぐそばにあるかもしれない。


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ネイチャーライター /
野島智司さん
ネイチャーライター、作家、かたつむり見習い。
糸島市を拠点に、身近な自然をテーマにした個人プロジェクト「マイマイ計画」のほか、自然と子どもによりそう場を開く「小さな脱線研究所」を主宰。糸島のフリースクール「NPO法人産の森学舎」「おとなとこどもの学校テトコト」で授業を担当するほか、筑紫女学園大学非常勤講師も務める。著書に「カタツムリの謎」(誠文堂新光社)などがある。5月に新刊「カタツムリの世界の描き方」(三才ブックス)を出版。

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