こども目線で自然と出会う
第6回:「連なりの多様性」
※ 6話目
ふと、道端に咲いている小さな花に気づき、立ち止まる。
小さな花を写真に撮ろうとしてしゃがむと、すぐ横に小さなキノコがはえている。
きれいな形のキノコだなと思ってながめていると、その横で小さなカタツムリがゆっくりと動いていることに気づく。
ツノがキノコにふれ、少し引っ込む。
……ちょっと花を写真に撮るだけのつもりだったのに、いつの間にか時間が流れていた。

こんなふうに、一つの小さな花との出会いをきっかけに、次々と出会いが連なることがある。
むしろ自然との出会いの醍醐味は、こうした「連なり」にあるんじゃないだろうか。
そんなときほど、日常を忘れ、自然に没頭してしまう。
1つのものを深めていく連なりもある。
小さな花の存在に気づいて、花の色に心惹かれ、水彩画で表現していくうちに、さらに繊細な造形に目を奪われていくこともあるだろう。
どんな連なりであっても、それは目の前の環境の豊かさを理解するプロセスだ。

そんな出会いの連なりは、こどもたちの遊びのなかではいつも起きていることである。
遊びは遊びそれ自体を目的とした行為であり、次々と連なることで色々な方向に展開していく。
例えば、地面に落ちているきれいな石に気づき、スコップでほじくりだそうとして穴を掘ったら、土の中からハナムグリの幼虫が出てきて、その幼虫を飼いたくなってケースを探し始める。探しているうちにカタツムリを飼っていたことを思い出して、そのケースを見てみたら、赤ちゃんカタツムリが生まれていることに気づく。
……というように、日常の遊びはいつまでも連なっていく。
遊びを構成する1つひとつは、おとなから見れば無目的でバラバラで、場当たり的な断片的な遊びに映るかもしれない。
でも、こども目線で見ると、それらの遊びも全体として絶え間ない一続きの「連なる」遊びなのだ。
心の響き合うものと出会い、それが連なっていく。
その連なりは、決して単なる偶然ではないだろう。

一見するとバラバラな物事のあいだに関係性を見つけることには、むしろ大きな価値がある。
私たちは、異なるものとのあいだに「境界線」を引くことに、つい心を奪われがちである。
学問として自然を理解するときにも、まず境界線を引くことが基本になる。生きものとそうでないものとの間に線を引き、植物と動物との間に線を引き、種と種の間に線を引く。そして名前を付け、分類し、自然を理解しようとする。
けれど、境界線を引くことは、まだスタートラインに立ったに過ぎない。
異質な他者と出会ったとき、まず引くのは境界線だろう。
でも、境界線を引いたまま距離をとっていては、本当の意味で出会っているとは言えない。
その相手と心を交わしあい、それがまた新たな出会いへとつながっていくなら、冒頭の小さな花との出会いのように、豊かな出会いの連なりへと広がっていくかもしれない。
そう考えると、大事なことは、境界線を越えるような「連なり」に気づくことにあるのだろう。
例えば、生態学(エコロジー)という分野は、まさに生きものと生きものとの関係に光を当てる学問だ。

こどもは初めて出会う生きものに対して、ときに「キモい」という言葉で境界線を引く。
例えば、カエルの卵を見つけたときもそうである。
「何これ、キモい」
得体の知れない物体を前に、真っ先にそんな言葉が出てくる。
その言葉の裏には、「わからない」「こわい」など、未知なものへの不安感や恐怖心があるのだと思う。
けれど、こどもはそうした先入観のようなものを乗り越えるのも早い。
おとなが無理にふれさせようとしたら逆効果である。
それよりも、私や他のこどもたちがふれて、カエルの卵のやわらかさを感じていれば、いつの間にか最初に「キモい」と言っていたこどもまで興味を持ち始める。
ともすれば、やがて自分の手でもやさしくふれてみて、「気持ちいい」と言ったり、「やっぱりちょっとキモい」と言ったりしながら、ちょっとずつなじんでいく。
そんなふうに境界線を越え、新たな出会い、そして連なりができる瞬間を目にすると、心から良かったと思う。

一度生まれた連なりは、さらに網の目のように広がっていく。
同じ水辺に棲んでいる生きもの、その周りの植物たち、いろんな連なりが生まれ、月日が経てば、卵はオタマジャクシになり、カエルになっていく。空間を越え、時間を越えて、連なりは広がっていく。
境界線を引いて終わりにしてはいけない。
多様性を強調することが、境界線を引くことに集中してしまうと、むしろ息苦しさを生むのかもしれないと思う。
でも、境界線の先に少しずつ連なりを見つけることができれば、多様性が豊かさに変わり、あらゆる存在が魅力的な存在になっていく。
境界線の向こう側と、ふれあうこと。
私という存在が、その橋渡しになれればといつも願っている。

そもそも生物学的にも、私たち生命は連なっている。
「系統樹」という言葉がある。
枝分かれする樹のように、私たち生命の多様性は、少しずつ分岐しながら豊かになってきた。
その進化の道筋を樹のような図に表したものが、系統樹である。
ヒトとカタツムリはとてもかけ離れた生きものだが、太古の昔までさかのぼれば、最初に枝分かれした地点「共通祖先」にたどりつく。その時代は、ヒトもカタツムリも、同じ生きものだったということである。
そして今も、ヒトとカタツムリは同じようにDNAを遺伝子として使い、細胞を持ち、脳を持ち、食べものを食べて、消化し、吸収して、呼吸をして、こうして生きている。
自然との出会いという連なりとは少し違うけれど、進化としての連なりもまた、自然界の連なりとしてとても重要だ。

自然と人とのあいだに、あるいは他の生きものと人とのあいだに、さらには人と人とのあいだに、境界線を引くのは簡単なことである。
でも、そこで終わりにしていては息苦しい。
境界線の先にふれて、私との連なりを見つける。
そうして世界を広げていく。
そんな大切なことが、道端の小さな花との出会いから始まるのかもしれない。
三ツ矢青空たすき編集部より:
野島さんのエッセイを読むと、ひととき喧噪から離れて自然の中の一部である私にもどるような気がします。
“ヒトもカタツムリもずーっと太古の昔までさかのぼれば「共通祖先」にたどり着く”と聞けば
そうなんだ!?と驚きながらも、猛暑の日のベランダで、少しくったりしながらも必死にツルをのばしている朝顔を見て、「あなたも暑いよね」と話している自分は、同じように光と水を必要とする生き物として朝顔を見ているのかもしれない。
ヒトと花、ヒトと昆虫ではなく、「いきもの」でくくるときに、たくさんの物語との出会いがやってくるのを感じました。


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