第8回:「お決まりのにおい」

 人はときどき、「お決まりのパターン」というものを欲しがる。
 相手といつも同じやりとりをすることで、どこか安心する。

 自然との関わりにも、そうした「お決まりのパターン」があって、ほっとする安心感をもたらしてくれる。


 私がこどものころに住んでいたのは、大分県竹田市の山奥の一軒家。
 庭と畑の境界くらいのところに、キンシバイという黄色い花を咲かせる低木が植えられていた。
 当時、キンシバイという名は知らなかったのだが、その植物の葉の香りが好きだった。

 いつも日課のように、葉っぱを一枚ちぎって、その香りをかいだ。
 やさしいみかんのような香りに、ほっとした。


 楽しいときも、悲しいときも、葉をちぎってにおいをかげば、やっぱりいつも同じみかんのような香りがした。
 私が成長しても、家族の状況に変化があっても、同じ香りがした。

 いつもと同じ「お決まりの」香りが、ふしぎと安心感をもたらすのだった。

キンシバイの葉

 こうした安心感をもたらす「お決まりのにおい」は、あまり強調されないけれど、自然との関わりの大切な側面の1つだと思う。

 そうした「お決まりのにおい」は、ほかにもある。必ずしも、キンシバイのような「良い香り」ではなくてもよい。

 例えば、アゲハの幼虫。
 こども時代は、庭にカボスの木もあったので、たまにアゲハの幼虫を見つけることがあった。
 アゲハの幼虫をつつくと、幼虫はオレンジ色のツノを出す。そんな行動も「お決まりのパターン」なのだが、そこで立ちのぼる独特の強いにおいが印象に残っている。

 アゲハにとっては外敵を追い払うためのそのにおいは、悪臭の部類ではあっても、やっぱりお決まりの安心感があった。
 あぁ、やっぱりこのにおいか……という安心感である。

アゲハの幼虫

 くさいにおいといえば、ドクダミのことも忘れるわけにはいかない。

 ドクダミも、こどものころ住んでいた家も、今の家でも、庭にはいつも生えていて、なぜだかたまにかぎたくなるにおいだ。かと言って、決して好きなにおいではない。

 葉をちぎってにおいをかぐと、やっぱり「ドクダミ」としか言えないにおいである。触れた指にまでにおいがついて、なかなかとれない。
 それでも、そのにおいをかぐと、なぜだか安心するのである。

 ドクダミのにおいは、ドクダミでしか感じられない。
 これもまた、お決まりのにおいである。

ドクダミの花と葉

 においというのはおもしろい。自然の中にはこうした定番のにおいがいくつもある。

 それは、植物とあいさつを交わすようなものかもしれない。
 ふれて、感じて、互いが今日も生きていることを確認し、ほっとする。

 余談だが、以前、新型コロナに感染して、ドクダミのにおいを感じることができなくなった。
 嗅覚を一時的に失ってしまったのだ。
 いつものお決まりのにおいがなくなるというのは、どことなく不安な感覚だった。

 脳科学の研究によれば、においは感情や記憶との関係が深いという。
 こうした自然の「おなじみのにおい」によって、もしかしたら、私たちは本来の自分を保ち、あるいは取り戻せるようになるのかもしれない。

においを感じる

 糸島に暮らしていると、クスノキという木が、とても身近に感じられる。
 神社にも、公園にも、身近な森にも、クスノキはよく生えている。大木も多い。

 そして何より、クスノキは良い香りである。
 大きなクスノキには近づいただけでも、その香りがほのかに漂う。
 カンファーという香り成分を含んでいて、防虫剤の樟脳(しょうのう)の原料となり、医薬品にも利用される。スーッとする香りが特徴的である。

 クスノキの周りにはよく紅葉した葉がたくさん落ちている。その葉は「三行脈」と呼ばれる、葉脈が付け根から3本に分かれた葉っぱで、クスノキ科の樹木に共通する特徴としてわかりやすい。拾い上げてちぎり、クンクンと鼻を近づけると、クスノキの香りをより強く感じられる。

 そして、やはり、安心する。
 クスノキの葉は、おなじみの香りである。

 こどもと自然散策をするときには、しばしばこのクスノキの葉の香りを感じてもらうようにしている。
 香りを通じて、心に残るものがあるように思うのだ。

クスノキの葉

 自然の中でちょっとかいでみたにおいが、いつか自分を支える大切なにおいになっていくかもしれない。
 そう思うと、いろんな自然の香りを感じることの意味が変わってくる。

 良い香りであってもいいし、顔をしかめたくなるにおいであっても良い。
 キンモクセイの花かもしれないし、ミントかもしれないし、ヨモギかもしれない。あるいは、カメムシのにおいかもしれない。
 そんな「お決まりのにおい」が、自分を思い出すための、鍵になる。


 草花や虫たちとあいさつを交わすような、「お決まりのにおい」は、目立つ存在ではないかもしれない。
 でもきっと今も、多くの人の心を陰で支えている。


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ネイチャーライター /
野島智司さん
ネイチャーライター、作家、かたつむり見習い。
糸島市を拠点に、身近な自然をテーマにした個人プロジェクト「マイマイ計画」のほか、自然と子どもによりそう場を開く「小さな脱線研究所」を主宰。糸島のフリースクール「NPO法人産の森学舎」「おとなとこどもの学校テトコト」で授業を担当するほか、筑紫女学園大学非常勤講師も務める。著書に「カタツムリの謎」(誠文堂新光社)などがある。5月に新刊「カタツムリの世界の描き方」(三才ブックス)を出版。

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