第9回:怖がりながら、世界を広げる

私は7歳から16歳ごろまで、大分県の山奥で暮らしていた。
家のすぐ近くに竹やぶがあって、竹やぶの中でシイタケを栽培していたので、日中はよく竹やぶに入ることがあった。
タケノコの時期にはタケノコも探したし、おもしろい発見もあるので、竹やぶに入るのは楽しかった。

けれど、独りで、それも薄暗い時間に竹やぶに入ることは、なかなかできなかった。
竹やぶをのぞいて、その雰囲気を確かめるのが限界だった。

竹やぶが、怖かったからだ。

竹やぶが怖かった

竹やぶは薄暗い。その上、のぞいてみると「なぞの音」が響く。
竹と竹がぶつかる音なのか、竹の葉が揺れる音か、竹がしなる音なのか。
理由がわかれば怖さも和らぐのだが、どこからどのようにして生じた音なのか、見当がつかない。

ギィィィー

コォーン

カタカタカタカタ

トントントントントン……

強い風が吹けば、さらに色々な音がする。音の原因を特定しようとしても追いつかない。
あまりに不気味な音がするので、つい何らかの妖怪的なものを想像してしまった。

怖さはきっと、未知のものや危険なものに対して抱く感情だ。
竹やぶが怖かったのは、「なぞの音」が渦巻くように響く場所に、私が危険を感じたからだろう。

妖怪的なものを想像させる「なぞの音」

怖さを感じること自体は、自然と接する上で大事なことだ。

自然の中に危険があるのは確かである。
竹やぶにも危険な動物はいるかもしれないし、折れて倒れてくる竹もあるかもしれない。
急な崖もあるし、今にも転がってきそうな大きな岩だってある。

得体の知れないものに怖さを感じることで、大きなケガをすることなく、深い山奥の家で暮らすことができる。

そのときの天候、季節変化などによって、怖さも変化する。
大雨の日、雷鳴などが聞こえれば、いつも平気な場所さえも恐怖の場所になる。けれどそれは、本当に命の危険がある場所なのだから、必要な怖さである。

大分の風景

生きものも怖い。私が特に怖かったのは、スズメバチだ。

道沿いに植えられたチャノキ(お茶の木)に花が咲く季節、たいていスズメバチが蜜を吸いにやってくる。
一人で散歩していると、警戒したスズメバチが私の周りをぐるぐる回り始める。
近くに巣はなさそうだから、こちらから手を出さなければ、何もしてこないはず――そう信じる私は、ただじーっと身を強張らせ、いなくなるのを待つ。
心臓は高鳴り、一秒一秒がとても長く感じる。
じーっと待っていると、スズメバチはようやくどこかに飛んでいく。

幸い、刺された経験は一回もないのだが、こんなふうにスズメバチで怖い思いをしたことは何度もある。
スズメバチの動きはいまひとつ読めず、予測できない怖さがあった。

スズメバチがいなくなるのを待つ

怖さは、動物にとって基本的な感情だ。
危険を回避するための感情であって、自然界で生きる動物には欠くことができない。

スズメバチへの恐怖心は当然だし、竹やぶにも暗闇にも危険な地形や危険な野生動物が潜んでいるかもしれないのだから、怖いという感覚は必要なものである。
当然、怖ければ逃げる、離れるという行動に結びつく。

過剰なものでない限り、怖いという感情は生きていくためにとても大事な感情で、自然とふれあうときにも大事にしなければいけないものだ。

怖さも大切な気持ち

一方で、「怖いもの見たさ」という感覚もある。

都会で闇を感じることはほとんどないが、山奥の新月の日、夜道はまさに闇という感じだった。
まぶたを開けて歩いても、まぶたを閉じて歩いても、何も変化がなく、音と感触だけが手がかりになった。

もちろん懐中電灯を持っているのだが、兄がそばにいるときなどはあえて懐中電灯を消して、記憶と感覚を総動員しながら、駐車場所から家までの闇の中を歩いてみたりする。
あえて怖さを味わって歩くのだ。

どこになにがあるか見えないという怖さを、記憶や感覚で乗り越えていく。

「怖いもの見たさ」はきっと、世界を広げるための大事な感覚だ。
冒頭の竹やぶだって、のぞき見なくても良いのにしばしばのぞいて、音に耳を傾けた。
未知なものを恐れてしまうからこそ、その怖さを打ち消すために、怖い対象を知ろうとするのだろう。
そうしてやがて、独りで安全を確認し、自分だけで竹やぶに入れるようになっていく。

怖いもの見たさは、世界を広げる

一方、人間の「怖いもの見たさ」は、しばしば格好の娯楽になっている。

ホラー映画、ホラーゲーム、都市伝説など、怖さを売りにしたエンターテイメントは多いし、そうしたエンターテイメントを避ける人でも、怖い事件や戦争のニュースが気になって引き込まれてしまうことがあるだろう(私も例外ではない)。
それらも一種の「怖いもの見たさ」である。

現代は自然に触れる機会が少ない分、そうした怖さの消費が増えてしまうのかもしれない。

すぐそばにある自然だって、きれいでかわいいものばかりではなく、しばしば「気持ち悪い」「怖い」などと目を背けてしまうものもある。
もしも「怖いもの見たさ」によってそうした自然に近づくことがなければ、永遠にそれらも「気持ち悪い」「怖い」存在のままである。
まして見えないように覆い隠してしまえば、説明できない未知のものは徐々に消えていく。

すべては自然の一部

クモやムカデ、ナメクジ、毛虫やゴキブリだって、生態系の中でみんなつながり合っている。
怖さや気持ち悪さにも、みんな理由があるものなので、ネガティブな感覚も大切にしたほうがいいと思っている。

ただ、無条件にただ見えないようにしてしまうのではなく、何らかの「怖いもの見たさ」も大事にしたい。

人と生きものの適切な距離感は、もしかすると、「怖さ」と「怖いもの見たさ」のバランスで成り立つものなのかもしれない。


語り部一覧

ネイチャーライター /
野島智司さん
ネイチャーライター、作家、かたつむり見習い。
糸島市を拠点に、身近な自然をテーマにした個人プロジェクト「マイマイ計画」のほか、自然と子どもによりそう場を開く「小さな脱線研究所」を主宰。糸島のフリースクール「NPO法人産の森学舎」「おとなとこどもの学校テトコト」で授業を担当するほか、筑紫女学園大学非常勤講師も務める。著書に「カタツムリの謎」(誠文堂新光社)などがある。5月に新刊「カタツムリの世界の描き方」(三才ブックス)を出版。

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